■ > 研究会速記録 > 有山輝雄氏

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伊藤 有山さん、トップバッターを引き受けていただきまして、どうもありがとうございます。どういうことか分からないというような話ではないのでありまして、いままで自分が研究の過程で研究のための資料としてどういうものを使ってきたか。とりわけ、ご自分が発掘したり、あるいは、公然とあるんだけれども人があまり使っていないようなもの、そういうものを中心にザッとお話しいただいて、いろいろ質問させていただくということで、よろしくお願いします。
有山 基本的にいえば、私はジャーナリズムの歴史とかメディアの歴史をやっていますので、そうした観点の歴史資料ということをお話したいと思います。
ジャーナリズムの歴史とかメディアの歴史の資料というと、大きく分ければ3つあると思うんですね。1つはメッセージを作っている側――コミュニケーションの送り手の側。具体的には、新聞記者とか新聞社の組織とか雑誌社とか、そうしたものに関する資料です。それともう1つは、メディアそのもの――新聞・雑誌そのものですね。もう1つは、それを読んでいた読者とか視聴者の資料です。
もともと私がジャーナリズムの歴史などに関心を持ったのは、明治末期から大正期にかけて日本の広い意味での社会的なコミュニケーションみたいなものが転換してきて、それが政治過程に影響、あるいは政治システムに影響を与えたんじゃないかというようなことをやりたかったので、そういう点からいうと、いま話した3つの資料全体を見渡すようなものがあればいちばん良かったわけです。
ただ、私が研究を始めた時期は、ジャーナリズムの歴史の通史的なものはあったんですが、個別的な具体的な研究はあまりなくて、その時代の新聞や雑誌の記事をそのまま引用しているようなケースが殆どでした。あるいは、記者の回顧録とかに依拠して書いていて、よく確かめてみると、本当にそうであったかどうかは、必ずしも実証されているわけではありません。また、非常に基本的なことですけれども、新聞社という組織はどうなっていて、どういうふうに経営していたのかとか、収入はどうなっていて、どういうふうに意志決定をしたのかとか、あるいは、ジャーナリスト自体の個人的な経歴についても殆ど分からないという状況だったんです。
それではしようがないから、少し実証的な研究をしなければならないと思ったんですが、最初は、送り手――記者そのものについての資料は、どこにあるのか全然手がかりがなかったんです。まあ、それは私の研究も足りなかったんだと思いますけれども、全然分からなかったので、とりあえず新聞や雑誌そのものを見るというところから始めざるを得なくて、その時期ですと明治新聞雑誌文庫がいちばん収集があって、あそこに行けば少なくとも明治・大正の中期ぐらいまでの新聞・雑誌を見ることができました。その時期はまだ西田長寿さんの時期で、後に北根さんになったんですけれども、そもそも明治新聞雑誌文庫の目録も十分じゃなかったんです。東天紅と称するものがあったんですが、それでは十分じゃない。それで、その当時、北根さんが目録の作業をしはじめていました。ただ、明治文庫自体に新聞や何かについて欠号が非常に多かったんです。それでも、それでしかないわけですからやり始めてみたんです。
それは私個人にとっては非常に勉強になったんですが、それと同時に、いままで普通の政治史の方々が使っている資料からは分からない小さな運動とか、あるいは個人の活動が小さな記事に結構載っていて、そういった政治史とか他の関係の資料としても、新聞とか雑誌は意外に重要な資料ではないかということを思ったのです。当時あまりそういうことをやっている人は、政治史なんかの人もいなかったような気がするんですね。まあ、後には随分さかんになったのですけれども、あまりやっている様子はなかった。ただ、当時の新聞雑誌文庫に行くと、政治史や経済史の人も少しずつやって来ていて、そういった観点から新聞や雑誌を読み始めていた時期です。
ただ、やっぱりそのとき困るのは、発行された新聞・雑誌そのものはあるんですが、それがどういう意図で発行されているのかという、他の資料でしたらいわゆる資料批判みたいなことが必ずあるわけですが、それが分からないんです。それは結局、送り手側のことが何も分からないからで、非常に利用しにくくなっていたわけです。それは多分、政治史や何かをやられている方も同じようなことでしょう。あるいは、他の資料と照らしあわせると明らかに間違いであったり、そうしたことが新聞・雑誌に非常に多い。それで余計、新聞や雑誌の記事を使いにくい。また、非常に困ったことに欠号などが非常に多いし、揃いもないし、目録自体もない。あるいは、その欠号部分が他のところにあるのかどうかさえ十分分からないということだったんです。しかも、その当時はマイクロフィルムが十分になかったので、筆写してカードに転記するというようなことでしたし、結局、西田さんと北根さんに個人的に聞くぐらいしかないという、そういうふうなことだったんですね。
ただ、そのあとしばらくすると新聞や雑誌は急速にマイクロフィルムになっていって、それでずっと利用しやすくなった。はじめのうちはマイクロフィルムのリーダーも十分ではなかったですけど、リーダーもすごく性能がよくなったし、コピーを簡単に取れるようになった。また、マイクロフィルム化の作業が進むと、欠号が埋められていくということがあったんです。それは業者が探し出してくることもあったし、あるいは、北根さんとかああいう人が埋めていったこともあって、ある程度埋まっていったわけです。ただし、いったんマイクロフィルムができてしまうと、また欠号が埋めにくいという状況でもあったと思います。
そうして便利になったんですが、マイクロフィルムを見ようとするときにいちばん厄介なのは、検索機能が全くないということです。しばらくしたら復刻版が随分出て、現在は東京の有力な新聞・雑誌は殆ど復刻版が出たんじゃないかと思うんです。揃いではないですけれども、かなりのものが復刻版で読めるようになって、昔のように明治新聞雑誌文庫にわざわざ通う必要がなくなってしまった。またネガマイクロフィルムからコピーを取れるわけですから、いろいろなところで持つようになりました。ただ、そこでも大きな問題はやっぱり、検索がつかないということだと思うんです。それで、復刻版の業者も本来は復刻するときに索引をつけるべきだと思うんですが、実際には採算のことがあってやらない。索引がいちばん揃っている復刻版は多分、大阪の部落解放研究所がした東雲新聞だと思うんです。あれは1冊完全に索引の巻があって、非常にきちんとできた索引があります。他のものは殆ど索引がないんです。そういった点では、資料そのものの利用からいうと、新聞・雑誌はこの10年ぐらいの間で非常に利用しやすくなったと思いますが、現在の問題はやはり、索引をきちんとつける、或いは、データベース化するということでしょうね。
さらに最近は、資料の利用からいうと新聞社がデータベースを作り始めているわけです。それは、1960年代の末から70年代に新聞自体をコンピュータで作るようになって、いわゆるCTS――Computerizedtypesettingsystemと呼ばれていて、記事を新聞社のコンピュータの中に入れて、それを編集して制作するという作業過程が急速に進んで、それ以降は、新聞社の記事自体がコンピュータに入っているという状況でデータベース化が進む。あるいは、新聞社もさらにそれを歴史的に遡ってやることは進めています。
伊藤 遡っているんですか。
有山 ええ、それは少しずつはやっているんです。ただ、そこでミスが生じる危険性があるのと、データベースの問題はやはり、テキストしかないことですよね。図像としては、マイクロフィルムになるわけですが、マイクロフィルムがあれば簡単にCD-ROMとか別のメディアに置き換えられるので、それを各社やろうとしています。ただ、私の知っている限りでは、新聞社がバラバラに基準を作ろうとしています。別々なメーカーとかソフト会社と提携しているので、基準が統一化されないのではないかという恐れがあるんです。どちらにしろたいていの新聞社は2002年ぐらいまでの間に、新聞を図像としてCD-ROMか、あるいは別なメディアに置き換えようとしています。その際には索引を付けることをいま社内的にはいろんな新聞社はやっているようですけれども、そうなれば非常に利用しやすくなるんですが、ただ、その索引がどの程度のものになるのか、あるいは、CD-ROMのいまの状況では、CD-ROMの検索機能自体が非常に遅いという問題もあります。
伊藤 映像としてCD-ROMにした場合は、検索は不可能でしょう。
有山 ええ。だから、キーワードを付加するわけですが、そこにも非常に問題がありますよね。それを手作業でやっていますから、やった人の主観が入るし、あるいは、手間ひまがかかってしまって結局、採算ベースのことを考えると簡単なものしか入れられないということですね。だけど、この間ちょっと読売新聞の人に話を聞いたら、読売新聞はかなり詳しいのを付けるということを計画してやっていきたいということを言ってました。
伊藤 それは遡及版ですか。
有山 ええ。要するに、マイクロフィルムからCD-ROMにおとすわけですから、それに付けて……
伊藤 いま読売は、マイクロフィルムはもうあるわけですか。
有山 はい。創刊から全部揃ってます。マイクロフィルムからCD-ROMにするのは簡単なことで、スキャナで読み取るだけのことですから、それにキーワードを入れるということを考えているようです。
ただ、検索のためのソフトも朝日新聞社と読売新聞社はお互いに別々にやっているんですよね。そういうことも非常に問題ではないかと思うんですけどね。
あと、メディアそのものの資料からいうと、私なんかが最近非常に困っているのは、活字のメディアは記録性があるんですが、放送の音声とか図像、映像の資料の保存が十分でないということなんです。
伊藤 それは要するに、送り手のほうに残っていないということですね。
有山 残っていないんです。NHKもあまり残してない。たまたま私が昭和史とか戦後のことに関心をもつようになって、放送はたいへん重要なメディアとして、その政治的な機能とか何かを考えようとするとき、それ自体の保存がないんです。戦前期の放送で残っているのは、オリンピックの特別な放送とか、あるいは戦後のものもNHKに残っているんですが、それもNHKは必ずしも公開しているわけではありません。NHKの人に「こういうのはありますか?」って聞いてみると、「ああ、探してありました」というぐらいなサービスしかないんです。
伊藤 それは、NHKの研究所か何かが持っているんですか。
有山 愛宕山の山頂にある放送文化研究所と放送博物館にあります。
伊藤 その両方ですか。
有山 ええ。両方です。互いに人的な交流、情報の交流もあるようで、私は放送文化研究所の人たちとやらせていただいているんですけれども、そこの人がたまたま探してきてくれるとか、あるいは、ありましたとか、その程度で保存されているものの目録もないようです。
戦時中の放送だとか、日本が対外宣伝で流した放送とか、そういうものは一切記録がないですし、戦後占領期の放送もないんですよ。対外宣伝放送は、私はまだ直接聞いたことがないんですが、アメリカは傍受して記録を残していて、それを活字にもしているんですけどね。アメリカの公文書館の中にはそういったものも残っている。それに比べて日本には全然ないですし、あるいは、長期的に見れば多分、テレビのニュースとかそういうのは非常に重要なメディアの資料だと思いますけど、そうしたものが保存されないんです。
伊藤 いまも保存する体制はないわけですか。
有山 これからですね、2000年でしたか……横浜に新聞の博物館と、それにタイアップした放送の映像ライブラリーができることになっているんです。現在、ミナト未来21という地区にその一部分が作動しているんですけれども、残っているものは本当にわずかしかない。
伊藤 作動しているっていうのは?
有山 放送ライブラリー、行けば見せてくれます。
伊藤 何という図書館ですか。
有山 正確な名前は忘れましたけれども、NHKと民間放送連盟と共同で作った図書館があるんです。ただ、その目録も十分ではないんです。NHKの愛宕山の放送文化研究所に問い合わせて、そこの人は目録を持っているのでコピーを取らせてもらいましたけれども、それぐらいしかなくて、NHKの戦後の非常に有名な番組などは部分的に残っているものもあります。
伊藤 それは音声ですか、画像ですか。
有山 音声も残っていますし、テレビの番組も残っているものもあります。ただ、日常的なニュースとか番組は残ってないです。ドキュメンタリーなども、非常に有名なものも残っていないんですね。あるいは、政治の研究には直接関係ないかもしれませんけれども、ドラマみたいなものもない。ただ、これからは長期的に保存しなければならないということで、横浜に博物館と放送ライブラリーを作る予定にはなっているようですが、私も進行状況については詳しくは知りません。ともかくこうしたライブラリーを充実させていくことが必要だと思います。
伊藤 活字になっていないから、遡及版というわけにはいかないですしね。
有山 そうなんですよね。もうすでにこの何年間で失われてしまったわけですよね。戦後のNHKの有名な放送も記録は残っていないんです。たとえば、占領期の『真相はこうだ』とか『真相箱』とか、有名な番組で、当時の日本人に大きな衝撃を与えたものがあるんですが、本当に断片的なものしか残ってないんです。1回分とか2回分とかしかないんですね。あれはアメリカ軍のCIEが関与していたのでそちらの側に台本が残っているんですが、それは逆に英訳版なんで、番組内容を正確に伝えるものではない。そうした状況なんです。だから、資料の保存としては確かに活字のものも非常に重要で残していかなければならないんですが、映像とか音声とかそうしたメディアの資料についても残していく必要があると思うんです。
それともうひとつは、私が最近、戦後のことをやり始めたこともあるんですが、いわゆる二流、三流のメディアといいますか、週刊誌とかいろいろな団体などが出している雑誌とか、そういうものの保存が十分ではないんです。どこの大学でも朝日新聞とか毎日新聞とかそうしたものは、マイクロフィルムとかいろんな形で持っているんですが、小さな新聞・雑誌の保存が十分でないのです。要するに、それはかつて明治文庫が直面したのと同じことで、明治文庫が非常に貴重なコレクションになっているのは、それは朝日新聞をもっているからではなくて、明治・大正期のさまざまな運動の機関紙とか、あるいは、その当時は読み捨てにされたような雑誌とか、そうしたものが残っているところに重要な価値があると思うんですが、いまそうしたものが失われてしまいつつあるんです。国会図書館はもちろん週刊誌なんかももっているんですが、週刊誌を利用しようと思うと、いま貴重書みたいな扱いになっていて非常に利用しにくくなってしまっています。あるいは、いろいろな団体とか労働組合などの機関紙は、コレクションとしては保存もされていないようですし、そうしたものも保存する体制を作っていかないと、長期的に非常に困ってしまうのではないかと思います。
伊藤 明治新聞雑誌文庫は、あのあとずっと集めていくという予定はないようですか。
有山 私も最近行かないので知りませんが、予算のこともあってそんな十分に集めている様子はないですよね。
まあ、それはどちらが良かったのかは知りませんが、西田さんの時代は非常にある意味で閉鎖的で、書庫になどは絶対に入らせてもらえなかったにも関わらず、最近はかなりオープンで入らせてくれる(笑)。それはいいと言えばいいですけど、逆の問題も生じているんじゃないかと思いますし、あるいはコピーも取らせてくれるので便利ですけれども、痛んでいくという状況があるし……まあ、それは明治文庫の問題ですけれども。
それ以外のところでもそうした二流・三流の新聞・雑誌の保存を、1箇所でやるのは難しいと思いますけれども、分担してやるとか、そういうことが必要じゃないかなと思うんです。私はアメリカの大学のそういったコレクションを知りませんが、アメリカの大学ですと、大学が分担してスペシャルコレクションとかいって、たとえば、私の大学は日系移民の資料を集めていますとか、こっちの大学はイタリア系の移民の資料を集めていますとか、そういうやり方をしていろいろな資料を集めていますけど、ああいうことがこれから必要なんじゃないかなと思います。
伊藤 先ほどの新聞の話で、東京の新聞は大体、復刻版なりマイクロフィルムが出ていると。だけど、何がどこまで出ているかというふうな目録は何かありますか。
有山 いま一応、国会図書館が『全国複製新聞所蔵一覧』という目録を作っているんです。それは随分便利になりました。
伊藤 それは手に入れられるわけですか。
有山 ええ。あれは紀伊国屋書店が販売しているんじゃないですか。
伊藤 新聞に関しては、それを利用すればいいわけですね。
有山 利用するにはいちばんいいと思いますね。
有馬 それは国会の所蔵目録の形で出ているものですか。
有山 いや、全国の主要な図書館とか主要な大学とかにアンケート調査したようですけれども、全国の主要図書館の目録です。国会図書館の所蔵目録は「国立国会図書館所蔵新聞目録」があります。
伊藤 それは新聞ですね。
有山 ええ、新聞です。
伊藤 雑誌は?
有山 雑誌はないですね。
古川 大学に入っているやつは学術雑誌総合雑誌には一般の雑誌も全部入っていますよね。
有山 ええ、それは入っていますけどね。
伊藤 ナクシスで検索すると、大学がもっているものは全部出てきますよね。
有山 ええ。図書館の館員がもってますよね。あれで分かりますね。
伊藤 コンピュータで検索できるんですよ。だから、雑誌名を入れたり何かすると、どこの大学が何を何号から何号まで持っているというのは出てきますけどね。
中静 それは、大学側がコンピュータ入力している場合ですよね。
伊藤 そうです。
有山 多分そうですね。だけど、冊子になったものもありますよね。
古川 ええ、あれは昔からあるんです。あれでも大学にあるやつは、実は学術雑誌ではなくても全部載ってます。実際、僕はそれで見つけたことがあります。
有山 多分、学術雑誌と一般雑誌と区別することはできないから載っているということでしょうね。
伊藤 だから、特に雑誌なんかだと、同志社とかああいうところで所蔵雑誌目録とか、それから、大原社研は出してないか……
有馬 いや、ありますよ。古いやつだけど新聞・雑誌がありますよ。
伊藤 そういうものの総合目録がなかなかないんだよ。
有山 全体的なものはないですね。
伊藤 というか、どういう目録があるのかという、その目録を今度のあれで作りたいと思っているわけですが。
古川 だから、いま図書館ごとの雑誌目録はいろいろありますよね。
伊藤 そういうものをどんどん収集して……
有山 あと、新聞の現物を保存するところと、マイクロフィルムでいいところとを区別していかないと、これから多分、非常に困ると思うんです。うちの大学なんかでも現物ももっているんですが、もうこれはマイクロフィルムにあるから要らないっていえば要らないんですけど、捨てるにも捨てられないし、持っていて邪魔扱いされているんです。将来的には、そういうことをどうするのかということを、どこかに必ず現物はなくちゃいけないはずだから、それは東大とか国会図書館とか、そういうところがきちんと保存するほうがいいと思いますけどね。
伊藤 個人文書と雑誌とはかなり重複するわけで、いま僕がやっている矢部貞治の文書、憲政記念館に寄託になっているんですけど、記念館が必要なところだけ目録を作って、あと全然放ってあるわけです。それで目録なしのところを見るとやっぱり雑誌が非常に多くて、僕がいままでかつて見たことがないような雑誌がぞろぞろあるわけですね。彼がもらった雑誌とか、自分が書いた雑誌とか、そういうものをかなり丹念に取ってあったんでそういうのは他の文書にも随分あるんですよ。だから、これもきちんと目録ができればいろんな形で検索できるんじゃないかと思ってますが、新聞の場合はいままでどうしてたかな。
有山 あまりないんですね。
伊藤 ないですね。
季武 比較的少ないんじゃないですか。
伊藤 雑誌の形態になったのものは比較的、個人文書の中にあるんですね。
有山 新聞は折り畳んで入れてしまったら非常に痛みが激しくなって、ボロボロになってしまうというところがあるんですよね。
伊藤 まあ、雑誌は基本的に折りませんし、そのあとなんべんも読み直すなんていうことはないですから比較的きれいに残っていますけれども、それでも開くとやっぱり、雑誌は紙が悪いですからポロポロ…ポロポロと。いま目録作りを1日やって、終わると身のまわりに落ちているわけです(笑)。これが何回も続いたら雑誌そのものがなくなるんじゃないかと。
古川 ちょっと質問なんですが、雑誌みたいなもので特に昭和期にパンフレットがいっぱい出ましたよね。アメリカのプランゲで保存しているという……
有山 プランゲコレクションにあるのは戦後占領期のもので、戦前に随分パンフレットが出ているんですが、それもちゃんと収集しているところはないです。
伊藤 国会図書館はあれを何かのカテゴリーに入れて、表に出していないけれども実は持っているという話も聞いたんだけど。
有山 それは私は知りませんが、昭和10年代ぐらいに、10銭パンフレットとか何とかがいっぱい出ているんですよね。
伊藤 今日の問題社とか、いろんなやつがありますよね。
有山 ええ。怪しげな出版社といえば怪しげな出版社ですけけどね。(笑)
伊藤 それから、いろんな団体が講演集を出してますね。ああいったものはパンフレットですから、あのパンフレットの形のものは、国会図書館は図書として扱ってないんですよ。
有馬 結局、図書館があれを本に扱わなかったから残らなかった、という面が非常に大きいんです。
伊藤 残らなかったじゃなくて、どうも納本はさせたらしいんだけど表には出してないと。
古川 あれは当時の写真を見ると新聞スタンドで売っているから、相当みんなが買ったはずですよね。
有山 ええ。随分売れたものだといわれているんですね。
伊藤 ですから、いろんな人の文書の中にはそういうのがたくさんあるんですから、あれもちゃんとリストアップしておけばね。
有馬 だから、図書の範疇にも入らないし雑誌の範疇にも入れないから、たとえば、大学の図書館あたりだと、どこかに積んでおいて、どこかの段階で廃棄してしまう場合があるんですね。
有山 だから、あれは実態が分からないですよね。何種類ぐらい出たのかとか、部数がどれぐらいのものだとか、それが全然分からなくて、ときどき古本屋なんかに重なってあることはありますけどね。
伊藤 僕も前はああいうのを面白がってせっせと買ってたんだけどね(笑)。ちょうどこれぐらいの大きさでしょう。そんなのがワーッとありますけどね。
有山 ああいうのも一定の政治的な意図はもって出しているものですから結構、利用すれば面白いものだと思いますけど。
伊藤 たとえば、平沼の文庫なんだったけな……
古川 あそこの玉川……
伊藤 あの文庫なんかに雑誌・パンフレットの類もかなりあるんです。それで、新聞なんかはあそこの目録に載ってなかったけど、行ってみたらちゃんと国本新聞が全部揃えてあった。国本新聞なんていうのは、国会図書館に行ったってないでしょう。そういう情報をこれからどんどん集めて、それでホームページに入れていくという作業をやりつつあるわけです。
有山 それで、先ほどまでの話が主に新聞・雑誌そのものの話で、あと、送り手といいますかジャーナリストとか新聞社そのものの資料も集めてはいるんですが、そこは非常に問題が多いんです。ひとつは現在ある新聞社ですね。結局、朝日、毎日、読売と地方紙の有力なものなんですけれども、それは資料が現存してないんじゃないかと思うんです。あるいは、持っていても公開しないということがあって、非常に利用しにくいんです。地方紙などは、オーナーの一族がいますので資料を持っているケースはあると思うんですが、なかなか公表されないんですね。比較的公表されたのは、名古屋新聞だった小山松寿の資料は、山田公平さんが編纂されて刊行されましたけど、あれは新聞社の資料として非常に貴重な資料で、ちゃんと帳簿が残っていますから経営実態も非常によく分かります。それ以外、信濃毎日新聞とか河北新報社とか、オーナーの一族がいまでも続いているところは資料が当然あるのではないかと思うんですが、公表しないんですね。あるいは、持っていないのかもしれないですけど。
伊藤 あるいは、働きかけていないということもあるんじゃないですか。
有山 それもあるんです。それで、私が働きかけてはしてみてもなかなかガードが固くて。
それと、厄介なのは結構、社内派閥に関係してしまうケースが起きるんですね。有力な新聞社である毎日新聞社はいろいろ資料を持っているはずです。本山彦一という人物が経営していて、彼の日記は現在公刊されているのですが、一部削除されています。そこで毎日新聞社に現物を保存していないのかと聞くと、いまの担当者に何度聞いても、もう持ってないと言っているんですね。
それから朝日新聞社は非常に閉鎖的ですし、社内に残っていても多分、それほどの量じゃないと思うんです。ただ、村山家と上野家は分からないです。
伊藤 大阪に村山家の資料があるということは、朝日の社史を編集した人が言ってましたけどね。
有山 私も大阪朝日の人も知ってますけれども、そういう人は非常に、よくいえば愛社精神が厚くて、余計ガードが固くて見せない。ただ、私の知っている限りでは、村山家のものが直接出たということはないようですね。大阪の朝日新聞の社史編纂室も、村山家のものは持っていないということですね。
伊藤 僕が聞いたのは、村山家と関わるような文書があるんだけれども、草書体なので読めないので放ってある、というふうに社史編集室の人は言っていましたが、いま社史編集室の室長が僕の知り合いだから、行って詳しく聞いてみようと思っているんですけれども。
有山 ただ、朝日新聞はいろいろ複雑なことがあったので、余計ガードしているところもあるし、あるいは、本当に持っていないところもあると思うんですよ。
伊藤 持ってないんじゃないかと思うんですよ。
有山 私もそうしたものをいろいろ探して努力はしているし、あと、いまもすでにどんどん失われてしまう状況なので、新聞協会の「新聞研究」という雑誌に新聞社が資料を公開するようにとか、あるいは、少なくとも保存するように。目録を作って、情報公開法とまではいかないにしろ、一定の年数の経ったところで、どこかに寄託するなり何とかするようにしたほうがいいじゃないかということを以前提案したんですが、一般論として賛成した人はいたんですけど、具体的に自分のところでというふうな動きには結局ならなかったんですね。だから、いま現役の方に聞いても、殆ど保存していないというし、十分じゃないようです。まして、なくなってしまった新聞社については、なかなか残ってないですね。そうなると結局、その新聞社の内情を知る資料は、新聞社と付き合いがあった政治家の文書に入っている新聞記者の書簡とか、そうしたもので推測するしかないんです。
伊藤 たとえば、国民新聞についていえば、蘇峰の文書がかなり役にたちますね。
有山 そうですね。なくなった新聞社で社の組織とか経営実態が明らかになるのは、国民新聞社がいちばんよく分かると思うんですよ。他のところは殆どそれに匹敵する資料がないですね。まあ、さっき言ったように、名古屋新聞は小山さんの資料があるので、分かるんですが。
伊藤 時事なんかはどうですか。
有山 時事新報は、慶応大学に何度も問い合わせてもないですね。慶応大学で研究されている方がいますが、たとえば、株主総会の勘定報告書みたいなものが当時、新聞年鑑なんかに載っているんですが、それをもとに研究しているぐらいで、経営の実態はなかなか分からないですね。どういうふうに新聞社が意志決定したとか、そういうふうなことは殆ど分からない。
伊藤 今度見せますけど、石井の日記を前にちょっとお見せしたでしょう。前のほうをまた2年分……
有山 石井光次郎。そうですね。
伊藤 あれはおこしましたから、今度見せます。
有山 ぜひお願いします。
朝日新聞は比較的、ガードが固いんですが、周辺から分かるんですよ。
伊藤 朝日の人に、こういうのがあるよと、僕がいまやっているよと言っても全然反応がないから、とにかく沈滞してるんだね。
有山 そうですね。それで、もう大分前になりますけれども、朝日新聞が100周年になったときに社史を作ろうとしていたわけですが、村山問題があったので刊行が何年も遅れてしまったんですけれども、たまたまその当時、私は大阪のほうの大学にいたので、広告局の人が社史とは別に広告の歴史を作りたい、そのかわり広告部にある資料は見せると言ったんですよ。その当時の広告担当の専務の方が何でも見せるからというので、そのときは見せてもらったんです。そのときに大阪本社に残っていた広告関係の経営の資料を見せてもらいました。
ここで新聞の経営の話をしてもしようがないですけれども、いまでもそうですが、広告は表面と実態とは全然違うんです。広告料金というのは当時の新聞紙面に載っていますけれども、あんなふうに取り引きしていたわけでは全くなくて、本当に腹芸みたいなことでやっていたのですが、それに関する資料とか、電通との契約書とか博報堂とか有力な広告代理店と契約をどういうふうにしていたのかとか、あるいは、広告の問題をめぐっていろいろトラブルの問題とか、さらに広告から芋蔓的に探っていくと朝日新聞の経営実態そのものもかなり分かる資料があって、大変役に立ちました。
そのとき入手した資料は、国民新聞社の経営の分析をするときにも非常に役に立って、広告とか販売の収入がどういうふうになっているのかというのは、実態を分析する上では非常に参考になりました。
伊藤 重役会議の議事録とか、そういうものも残ってないわけですか。
有山 残ってないようですね。名古屋新聞の小山さんの資料を見ると、重役会の資料も非常に簡単なことしか書いてないんですね。あるいは編集の会議とかそういうものも、もちろんあったはずですが、資料はありません。
伊藤 議事録なんて残さないんでしょうね。
有山 多分、当人がメモをつけるしかないんだと思うんです。
伊藤 そうするとやっぱり、個人文書が重要になってくるというわけですね。
有山 そうですね。それで、この何年か私は、戦後というか占領期のことに関心を持ち始めて研究を始めたんですが、そのときにはたまたまアメリカの公文書が公開になっていた時期だったので、いままで戦後あるいは戦中の新聞についていろいろいわれているけれども、実態はどうだったのかということで、アメリカの公文書を見ることから始めました。いまは殆どGHQの文書は国会図書館の憲政資料室に入ったので見ることができます。また、大学の研修を利用してアメリカのワシントンの公文書館で、統合参謀本部とかそういうレベルの資料を見に行きました。そのときちょっとびっくりしたのは、向こうのアーキビストが非常に親切に資料を教えてくれるんです(笑)。私なんか英語が十分じゃないのに、こういうふうなことをやりたいんだけど、こういう資料を探しているんだって言うと、向こうの専門家が、ここにこういう資料があると教えてくれる。その過程では、向こうがこいつはどの程度知識をもっているか、試験ではないんですけど、そういうふうなことを質問した上ですが。
伊藤 ちゃんとスクリーニングはやるんですよ。それでランクを付けるんです。
有山 そうですね。それをした上で教えてくれて、ここにこういうものがあるんだとか、私が行ったときには書庫の中にまで連れて行ってくれて、「ここにこういうものがあるけど、お前関心あるか」とか言ってくれて大分見せていただきました。
それと、さっき古川さんが言っていた、メリーランド大学にプランゲコレクションと称するものがあって、あれはCCDという部隊が日本の新聞雑誌を検閲していた資料なんですね。当時の検閲では原則として新聞・雑誌全て2部提出させて、そのうちの1部がアメリカに残ったわけです。アメリカは、占領が終わったときに廃棄せずに、プランゲという人がもらってメリーランド大学にもっていったものなんです。その資料がメリーランド大学にあるので、それを見に行ったんです。
伊藤 何大学ですか。
有山 メリーランド大学という、ワシントンの郊外にある州立大学です。
伊藤 僕も行ったは行ったんだけど……
有山 マッケルディン図書館というところにあって、私が行ったときには全く目録がなかったんですよ。
伊藤 カードがあったでしょう。
有山 カードを作っていたんですけれども、非常に不正確なカードであったのと、雑誌は、一応カードに作ってあったんですが、新聞はカードがほとんどなかったんです。
伊藤 いやあ、作ってましたよ。僕はあなたより前に行ってるけど。
有山 いえ、新聞は十分なカードじゃなかったんですけどね。
伊藤 でもね、たとえば、僕はあのとき茨城っていうところだけ見たんだけど、それでも何十種類もあったんですよ。
有山 しかし、全体をカードにしていたわけではなかった。それで、私が最初に行ったときは、フランク・シュルマンという人がそこの司書をやっていました。どちらにしろ戦後占領期に発行された有名な新聞はもちろん日本にも残っているんですが、あの時期、非常におびただしい数の新聞・雑誌が出たんです。労働組合の機関紙とか、共産党サイドの機関紙とか、そういった類のものが日本では失われてしまったわけです。それはさっき言いましたように、そういった二流、三流とされているメディアはいまも保存されないのと同じことで……
伊藤 二流、三流というか、村の青年団の機関紙まで入っているんですよ。
有山 そうなんです。学級新聞とかあんなものまで保存されているんですよね。
あれは日本でも保存すべきだったんですが保存されなかった。しかも、本来は検閲の資料が付いていたはずなんですよ。これはパスするとか、あるいは削除するとかですね。事前にゲラを2部提出させた、彼らは1部を保存して、もう1部は日本の新聞社や雑誌社に返したんです。だけど、日本の新聞社はどこも保存してなかったんですが、それがアメリカに残っていたんです。
それで、いま伊藤先生が言ったように、雑誌のほうと新聞の一部分はカード化が進んでいたんですが、非常に不十分なもので、これではどうしようもないなという感じだったので、私がフランク・シュルマンに、「研究者として利用するんだったら最低限これぐらいの情報さえあれば十分なんだから簡単な目録を作ろう」と言ったんです。そのために私も、その翌年と翌々年の夏休みを殆ど使ってメリーランド大学に行って交渉したり、日本のある出版社がやってもいいというようなことを言ったので作業を始めたんですが、結局は向こうの大学との話がつかなくて、フランク・シュルマンという人もちょっと癖のある人だったので彼のほうも異動になったりして、上手くいかなくなってしまったんです。
ただ、あれはその後、あそこにいた村上さんという方が非常に尽力して、国際交流基金などからお金をもらって、雑誌の部分についてはいま殆どマイクロフィルムの作業を終わって国会図書館に来ているんですよね。
伊藤 それは国会図書館のどこに入っているんですか。
有山 憲政資料室に入っているんですけれども、それもいろいろ問題があって、国会図書館は、戦後占領期のただ雑誌を埋めたという意識なんです。プランゲコレクションというまとまりを否定してしまっているんですよ。こういうふうなものとしてあったんだということは、国会図書館の目録から最終的には分からなくなってしまっているんです。だから、本当はそれとは別に目録を作る必要があって、検閲の資料として、新聞や雑誌のここには削除されている部分があるとか、彼らはインフォメーションといっているんですが、情報収集したその印が付いているところとか、そういうふうなことをきちんと書く必要があるんですけれども、国会図書館の目録には載らないようですね。
それで村上さんという人は、それとは別にプランゲコレクションの目録を作りたいと計画されていました。
伊藤 国会図書館ではどういうふうにして見せているわけですか。
有山 最終的には、逐次刊行物の目録に入れてしまうという計画になっていますね。そうすると、プランゲコレクションは見えなくなってしまうわけです。
季武 そうですね、バラバラになっちゃうわけですね。それは困りますね。
有山 ええ。だから、それとは別にプランゲコレクションとしての目録が必要で、それは村上さんが計画していました。
伊藤 だけど、そのマイクロフィルムがいまは憲政にあるわけですか。
有山 憲政に入っていて、もうZまで来たっていってましたけど、公開しているのは多分、Kぐらいまでだと思うんです。
伊藤 それは目録はあるんですか。
有山 データベースから打ち出したものがそのまま並んでます。
伊藤 それは何か取り組まなきゃしようがないね。
季武 そうですね(笑)。
有山 いや、あれはアメリカの大学のほうにデータベースがあるわけですから、村上さんというのは実は今年亡くなられてしまったんですが、その方の計画だったら、インターネットでつないで日本からも引き出せるようにすると。それで、国会図書館なんかを仲介すると厄介なことになるので、少なくとも自分の知っている人はアクセスできるようにするから、マイクロフィルムは国会図書館に来たわけですから利用するのは国会図書館で利用すればいいけれども、探すのはインターネットでやればいいじゃないかと、こういうふうなことを言っていたんです。しかし、村上さんが今年亡くなられてしまったのでその後の経過は知らないんですけど、ただ、目録は一応、出版ニュース社というところから出す計画になっているようです。
雑誌のマイクロフィルム化がすんだので、いま、新聞もマイクロフィルムに作業が取り掛かっているんです。そのことで村上さんから私も何回も連絡を受けたりして、どういうふうに整理したらいいかっていうことを聞かれたりしていたんですが、亡くなられてしまったので、その後どうなったのかは分かりません。
あの時期ですから、出している人が、自分が新聞を出しているとか雑誌出しているとかっていうことがないのに、図書館学の概念で、新聞とか雑誌とかに分類するのは無理があると思うんですよね。以前、雄松堂がプランゲコレクションの検閲資料の一部をマイクロフィルムで出したんですが、それは非常に問題があって、検閲にひっかかった部分だけを破いてマイクロフィルムに撮影してしまったんです。しかも、そこに資料が付いていた文書をばらしてしまったので、文書がバラバラになっしまっているんですね。たとえば、中央公論という雑誌の一つの論文が検閲にひっかかったというふうなケースは、そこだけ切っちゃったんですよ。それは作業を急いだせいだといわれているんですけど、そういうことをしてしまったので、雑誌をもう一回復元しようとすると、非常にそこでも手間ひまかかってしまっている。あるいは、検閲の文書が折り込まれていたんですが、これは検閲パスさせるとか、ここに問題があったとか、その挟み込んでいた文書をそのままにしておけば問題はなかったんですけど、それを向こうの人がばらしちゃったんですよね。
伊藤 向こうの人って誰ですか。
有山 アメリカのその図書館の人です。
伊藤 では、それはもとに戻れないわけですか。
有山 それで、村上さんという方が一生懸命戻して、それで殆ど戻ったといってますけど、それに莫大なエネルギーがかかってしまって、非常に大変なことをしているんです。それと、もともとあれは検閲の資料ですから、実務レベルの検閲の文書もあるんですが、それもマイクロフィルム化する必要があると思うんです。たとえば、赤旗のここの部分が問題だったんだとかを記した文書やゲラも残っているわけです。
ただ、村上さんが亡くなられたのと、向こうの大学でどういう体制になっているか私は分かりませんが、村上さんは一生懸命やる意欲をもってやっていたんですけど、そこは頓挫しているのかもしれません。
伊藤 本の検閲もありますね。
有山 本もあって、原稿もあるんですよ。部分的ですが作家の原稿とかありますね。あれも部分的に紹介して話題を作ったりしているんですが、あれもきちんと体系的に整理してやるべきことだと思うんですが、それも十分じゃないですね。また、あそこの大学はいま、アーカイブの別館が近くにできたこともあっていろんな資料が集まっていて、日本では比較的知られていない資料も入っているんです。憲法に関する文書とか、ああいうふうなものも紹介していくべきものだと思うんです。
伊藤 ハッシイ文書とか、ああいうやつですか。
有山 ハッシイのものとか、ケーディスという民政局の次長をしていた人物のものとか、ジャスティン・ウィリアムズという民政局の国会課長をしていた人物の文書なんかもあそこにあるんです。いまは配置を変えたようですけど、私が行ったときには地下にあったんですが、G2とかそうしたものの資料とかがあったんです。あと、戦後占領期の結果的には無名に終わってしまった新聞・雑誌は、いまプランゲコレクションがいちばん揃っているんです。
それ以外にあるのは、新聞協会にも当時の新聞の保存があるんです。
季武 新聞協会って日本のですか。
有山 日本新聞協会です。当時は、地方で中小といいますか零細の新聞社も一応、加盟とか、あるいは準加盟とかという形になっていたので、東京の事務局に新聞が送られてきている。それが製本されて、横浜の倉庫に殆ど利用されないままにあるんです。プランゲコレクションは、アメリカに運ぶ途中で新聞を折ってしまったので非常に状態がよくないんですね。新聞協会にあるものは、製本して殆ど利用されていないので、非常にきれいなんですよ。ただ、それも目録がないんです。
伊藤 目録っていうのは、どういう新聞が保存されているかという目録ですか。
有山 それもないんです。それも何号から何号まであるかということもきちんとないんですよ。ごく大づかみなものはあったんですが、それも必ずしも正確ではなかったんです。それで数年前にそれを持て余して、ともかく目録だけ作らなければしようがないからというので、私の大学院生を使ってごく簡単な目録を作ったんです。ただ、その後それは一部分が国会図書館に移管されて、一部分が新聞協会がそのまま持つという形になってバラバラになってしまったんですけど、ともかく保存はできるようになったわけです。
伊藤 どういうふうに分けたんですか。
有山 国会図書館が欲しいものを選ばせたと聞いています。しかし、中に地方版がきちんとあるんですよ。あの時期ですから、たとえば、北海道なんかで夕張とか石炭地域なんかは結構重要で特別な新聞が作られているんですけれども、そうしたものなんかがきちんと残っていたり、あるいは、学生新聞とかそういった普通の新聞ではないものもかなり残っているんです。
伊藤 それは新聞協会に頼めば、場合によっては見せてもらえるということですか。
有山 そうですね。いまは、西暦2000年ぐらいを目標に新聞の博物館ができるので、そこには収容されるという約束にはなっているんですけど、まだ実現できるかどうかは分かりません。
伊藤 その新聞の博物館っていうのは、計画はどこがやっているわけですか。
有山 新聞協会がやっているわけです。新聞協会の博物館も一応、研究施設を作るという計画にはなっているんですが、それは全く具体化していない。ただ、そこには文書とか新聞とか集まったものを収集しようという話は上がっているんですけど、具体的にはなっていません。
伊藤 新聞協会自体の文書もあるわけですか。
有山 文書はないんですよ。
占領期のマスメディアの研究をアメリカの公文書を見ていていろいろ研究もしたんですが、やっぱりそれと対応する日本版の資料が必要なんですね。日本側の資料をいろいろ探していたんですが、どちらにしろ新聞社そのものは保存がないといっているんです。大体さっき言った検閲の資料も保存してないんですよ。ゲラを2部提出して1部戻ってきたはずなのに保存してなくて、読売新聞社から『マッカーサーの新聞検閲』という本が出ているんですが、それは、高桑さんという後に読売新聞の北海道支社長をされた方がいて、その方が検閲の連絡を担当されていて、これは重要なことなんだからというので個人的にゲラを保存された資料です。だから、ゲラが残ったんですね。それ以外にも例えば、新聞社は検閲に対する対策をたてていたことが分かっているんです。これはひっかかるとか、これは安全だとか、それに関する文書なども残ってないんです。私はたまたま古本屋で朝日新聞のものを見つけたんですけど、他の新聞社も残ってないんです。それも非常におかしいですし、この間ちょっと読売新聞社に機会があってそこの人に聞いたら、高桑さんの本も「資料にもらったはずだけど、いまどこへいったかな」というふうな話になってしまっているんですよ。
あるいは、特に昭和20年――1945年の7月、8月は、新聞社や通信社や放送局には、情報局から細かい指示がいろいろきたという、そういうことは多くの人が語っているんですけれども、その文書自体がないんです。公文書館にもないですし、情報局の資料にもないし、各新聞社、NHKとかに全部聞いても何も残ってないんです。
どちらにしろ新聞社は組織として文書を残していないので、個人のものにあたるしかないということになって探していったら、いくつか出てきたんですよ。一つは千葉雄次郎の文書で、あれは後に栗田直樹さんが使ってらっしゃいますよね。多分、僕のほうが先に行ったんだと思うんですが、僕が行ったときは、東洋大学の朝霞の校舎の書庫の中にただ積み上げてあったんです。私は、千葉雄次郎という人は最後に東洋大学の理事長をしたので、死後に遺族があそこに寄付したと聞いたので行ってみたんです。そしたら向こうの人は、「確かに理事長をされていた人のものなので、貴重に扱って整理もして全部あります」というので、話を聞いたら本なんですよ。千葉さんの持っていた本を整理して、千葉文庫とかいって図書館の一角にりっぱに並べているのです。「これを見たいんじゃなくて他のものが見たいんだ」といったら、「他に残ったものは隅っこのほうにダンボールで積み上げてあるから」というので(笑)、「開けていいですか」と開けてみたら、文書がいっぱい出てきたんです。それは栗田さんも使っているものもありますし、私も一部使ったし、まだ使っていないものも全部コピーを取りました。あの人は編集総長という戦時中の最高責任者だったので、そのときの編集会議のメモとか、あるいは、部分的ですけれども情報局から来た指示とか、重役でもあったので重役会の記録も残っていたんですね。
その他に、千葉は、戦後朝日新聞を結局辞めざるを得ないということで辞めるんですけれども、名古屋で中京新聞を出したんですが、その経営資料があったんです。それについては、井川充雄君という大学院生と一緒に論文を書いたんです。戦後一時的に生まれた新聞の実態を示す資料として非常に貴重なものだったんですね。
どちらにしろ、千葉雄次郎という人は戦時中から戦後の朝日新聞の幹部で、その時期の経営の実態とか、あるいは意志決定の様子を知る上ではいい資料だったんです。
その後、偶然なんですけれども、朝日新聞の関係者の資料はいくつか見つかったんです。それは前に伊藤先生にも話したかもしれませんが、長谷部忠という戦後の朝日新聞の社長をした人物で、政治部長で緒方竹虎の系統の人物なんですが、その遺族のところから日記と文書が出てきて、それは非常にいい資料なんです。その人はずっと若いときから最後まで日記をつけていたんですが、資料として非常に価値があるのは、1945年から52年ですね。彼は朝日新聞の社長になるんですが、村山家が戻ってきてしまうときに追放されるんです。その間の克明な日記があって、重役会でこういうふうな相談をしたとか、GHQからこういう圧力がかかってきて社論を変えざるを得ないことになったとか、レッドパージの問題とか、組合対策とか、非常に細かい日記をつけているのと、メモを残しているんですよ。
有名な事実として知られているが、その内容が分からなかった、1946年の第2次読売争議の際に、マッカーサーが日本の新聞社の幹部を呼びつけて訓示をしたということがあるんですね。そのときにマッカーサーが喋ったことを長谷部がメモをつけていたり、そのあと1947年に朝日新聞の論調が左翼的だというのでGHQから圧力がかけられるんです。その問題に関してGHQの幹部と会った記録とか、どういうふうに問答したとか、CIEの新聞政策とか、そうしたものの記録があります。また、1950年の講和問題で朝日新聞は全面講和論だったんですが、その際にもGHQから圧力がかけられるんです。レッドパージの問題も絡むのと、いろいろ圧力をかけて脅かされるんですね。その間の詳細な記録と、当時の朝日新聞の論説主幹をやっていた笠信太郎をクビにしろということを言われるんですが、その間のやりとりとかメモとか、詳細な記録が残っているんです。
あと、村山家との問題も資料が残っているんですよ。それは戦後占領期の日本の新聞の意志決定とか、編集方針決定過程、たとえば朝日新聞の全面講和論というのは後退してしまって、最終的には部分講和論になってしまうんですけど、それは論理の問題ではなくて、政治的な力関係の問題でそうなっていくことが詳細に分かるんです。
伊藤 その資料はいまはどうなっているんですか。
有山 遺族のもとにあって、私がワープロで全部起こして、刊行しようと言ったんですが、奥様のほうが、自分は日記を見たことはないけれども、プライバシーがあるんじゃないかという心配をされていて、公表したくないと言われているので、当分そのままにしているんです。それで、研究に利用してはいいというので、研究に使うつもりです。
伊藤 将来とも公共のところに入れようというあれはないということですか。
有山 それはちょっと分からないです。奥さんが非常に渋っていて、私がその日記を読んだ限り、プライバシーに関わるようなことはあまり書いてないんですよ。奥さんのことも書いてあるんですが、長谷部さんという人は、生前を知っていた人からいうと、非常に剛直な強い人だといわれているんですが、日記を読むと悩みなども書いてあったりして、奥さんなんかを非常に褒めているんです。たとえば余談ですけど、村山長挙が公職追放が終わって戻ってきてしまって、長谷部さんは社長を辞めさせられてしまうんですが、その経過についても詳しく書いてあって、その最後のところに、奥さんにどういうふうに話したらいいだろうかと悩んでいることが書いてあるんです。いままで社長だったのが急に浪人になってしまうわけですから、生活もあるし、どう話していいか困ったと。それで話してみると、うちの家内は、あなたが決めたからそれでいいでしょうと言ってくれたので、なかなかいい家内だとか書いてあるんです。こういうふうなことも書いてあるんだし、気にしないでいいんですよと私は言っているんですが、奥さんはためらっていらっしゃいます。
あと、戦後のその時期ですと、森恭三という朝日の論説主幹をやられた方が日記をつけているんです。その人は論説の中心人物で、たとえば、1945年の11月に、朝日新聞の戦時中の重役は全部総退陣して国民とともに立たんという宣言を発表するんですが、それを書いた人物でもあるんです。しかもその人は、戦後の新聞単一という産業別労働組合の朝日新聞の側の組合の指導者でもあったわけです。その人の日記も、それも私が偶然のことからある朝日新聞の記者から聞いたんですけれども、行ってみたら残っていたんですね。
伊藤 それは遺族ですか。
有山 ええ。奥さんもいらっしゃって、残していたんですね。それもコピーをとったんですけど、ただ、その人の日記は、残念ながら公的な活動に関する記述は殆どないんです。特にその人にとって重要だったのは1945年と46年、47年で、朝日新聞が戦後どういうふうに再建するのかという時期と、読売争議とか2・1ストだとか、その時期の労働運動の組合の委員長なんですね。それで多分、非常に忙しかったためだと思うんですが、残念ながらその記述はないんです。メモはあるんですが、簡単なことしか書いてない。組合の執行委員会は何日に開かれたとか、そういうふうなことしかなくて、あまり資料的な価値はないです。あと非常に個人的な感想しか書いてないですね。
ただ、その資料は、私が行ったあとに東大の社会情報研究所に寄託されることになったんです。
伊藤 新聞研究所が日記も含めて持っているわけですね。
有山 ええ。一部をCD-ROMにすると聞いています。
戦後占領期の長谷部さんの文書とか千葉さんのものを見ると、戦時中から戦後の朝日新聞の意志決定がどういうふうに行われたのかが非常によく分かるんですね。それで、たまたまその時期の関係者でまだ存命な人、代表的な人が広岡知男さんといって後に朝日新聞の社長をした人物なんですが、広岡さんは戦後占領期の組合の指導者でもあるのですよ。1946年の10月5日に新聞のゼネストがあって、翌年に2・1ストもありますから、そのどちらでも朝日新聞はストライキに突入しないんですが、ストライキ反対派の代表的な人物なんですね。その人はまだ非常に元気なので、私は何回かインタビューしてます。
伊藤 もう相当なお年でしょう。
有山 90だそうです。でも、非常に元気です。それで、鮮明に覚えているんですね。彼にとってもその時期は非常に重要な時期であって、まあ、「私があのとき編集局長室の机の上に立ち上がって演説して、ストライキ反対だと言ったんだ」とか、そういうやや物語的な部分もあるんですが、要するに、共産党の指導に対して、自分が対抗して組合のリーダーシップを取り戻すという経過を話してくれました。
伊藤 それはテープを取りましたか。
有山 ええ。取って、私がワープロに起こしまして、先日も広岡さんに会ったので、「続けて話を聞かせてください」と言ったら、まだ元気で話してくれるとのことでした。その時期については、朝日新聞についてだけは経営者の言い分も、あるいは当時の組合の言い分も比較的分かるんです。
あと毎日新聞社も、特に講和問題でGHQから圧力をかけられて、そこも社論を変更するんです。そのときの論説主幹だった人は新井さんという人なんですが。
伊藤 新井なんというんですか。
有山 新井達夫です。その方もご遺族が分かって、資料を問い合わせたら、4、5年前に家を引っ越したときに、莫大な日記とか何かが残っていたけれども、焼いちゃったというんですよ(笑)。それで、私が問い合わせたときに、気の毒だから一生懸命探しますといって1枚だけ資料が見つかったんですが、それはやはり、GHQから圧力がかかって毎日新聞が全面講和論を撤退するときの意見書でした。別にそれだけ残したのは多分、その人にとっては非常に重要な文章だったんでしょうね。ただ、その息子さんの話だと、日記もちゃんと残っていたというんです。
戦中・戦後の資料は、それ以外にもいろいろ見つかったんです。ひとつは、この近くにあるんですけど、新聞通信調査会という団体がありまして、同盟通信社の財産の一部を引き継いでいる団体なんです。以前は、有楽町の電気ビルという高層のツインビルに事務所を構えていたんです。そこに資料は残っていないかということを何度も何度も聞いて、関係者にも問い合わせたんですが、残ってないと言ってたんですよ。ところが、最近、事務所を移転したら、資料が出てきたんです。
ダンボールで7箱か8箱分、同盟通信社と、その前身にあたるのは新聞連合という通信社、更にその前の国際通信社、その3つの通信社の資料、経営の中心あるいは社の決定に関わる根本的な資料ですけど、そうしたものと、あと新聞統合という1940年代の新聞が再編成される際の情報局の資料が、綴じ込みやら何やらでダンボール2箱分ぐらい出てきたんです。それは恐らく、古野伊之助という同盟通信の社長が持っていた資料だと思うんです。古野伊之助はA級戦争犯罪人容疑者として、GHQから逮捕もされましたし、捜索を受けたはずなんですけど、どこかに多分、隠していたんだと思うんです。
新聞連合と同盟通信は、政府から秘密の助成金をもらっていたのですが、その資料がきちんと揃えて出てきて、もちろん表側の帳簿書類も出てきてます。株主に公表しているものと、裏側で操作して政府から援助金をもらっている資料と両方出てきたんですね。一部分は内川芳美先生がやられた『現代史資料・マスメディア統制』に一部分入っているんですが、それだけでなく殆ど時期が揃って完璧に揃っているんですね。
それと、古野伊之助が1940年代に情報局とつながっていて、新聞の再編成の中心人物であったために、情報局の第2部長という新聞再編成の当人の綴じ込み資料が2冊か3冊出てきて、それには先ほど言った新聞統合に関する政策文書と、各新聞社から意見書とか嘆願書とか、そういう文書が大量にありました。
しかも、それは別なところから出てきたんです。情報局に宮本吉夫という課長クラスの人物で、後に自民党の事務局長なんかをした人物なんですけど、その人物の資料が、新聞協会で博物館を作るということで展示する資料を探していたら、遺族からもらったらしいんですね。ダンボール2箱分ぐらいもらって、何年間かそのままほったらかしていたようですが、何か貴重そうなものかもしれないから見に来ないかというので行ってみたら、それが情報局の戦時中の資料なんです。宮本は第2部長の下にいた課長なので、先ほどの新聞通信調査会の資料とぴったり合うんです。しかも重なりは殆どなくて、新聞課とか放送課の綴じ込みそのものが出てきて、マスメディアに対する統制の文書が出てきたんです。
そのときに私は直接遺族に会わなかったんですけれども、間接的に聞いたら、もう1箱資料があったというんですよ。だけど、古本屋に売ってしまったというので、それがどうなったのかなと思っていたら、ある新聞のコレクターが買ったんです。遺族がなぜ売ったのかというと、情報局の課長で当時の新聞社の社長から嘆願書とかをいっぱいもらっていたわけです。そこに正力松太郎とか誰でも名前を知っているような人物の書簡があるので、遺族はこれは金になるだろうと思って古本屋に売ったようなんです。それが新聞のコレクターの手に入ったわけです。ところが、それはごく最近なんですけど、そのコレクターが新聞協会に博物館の資料として売ったんです。
それで、それが入ったというので私が見に行ったら、そこにも新聞社の社長などの書簡とかがかなりあるんですよね。それ以外に、宮本さんが自分の資料を綴じ込みみたいに作っていて、それも情報局やら内務省の内部文書で、書簡のほうはいま新聞協会の所蔵物になったのですが、あそこは業界団体で、新聞社の社長が、情報局にこびへつらったような書簡なので、いまとなっては非常にまずいとか、プライバシーだというので、そこの部分は公表しないでくれといっているので書簡類はそのままになっています。情報局と内務省のものは使っていいということなので、来年ぐらいそれを資料集としてまとめる計画です。
伊藤 その両方ですか。
有山 ええ、両方。全部合わせて資料集にしようと思ってます。それら資料は、1930年代40年代から戦後への連続性、それこそ伊藤先生なんかに前から言われている革新体制、新聞の場合は新聞新体制とかいわれたものが、そのまま戦後体制になっていくという経過を非常に示しているんですよね。千葉雄次郎のところに残っている朝日の側の資料でもやはり新聞新体制というものにのって事実上、地方の新聞社を系列下していくわけです。その辺の経過とか、そうしたことがよく分かるんですよね。
また、長谷部さんのところに残っているもののなかにも、新聞新体制が戦後引き続いていろいろな問題を引き起こすことに関するものも残っていて、そちらのほうは資料集には入れないんですが、その辺の経過が非常に詳しく分かります。たとえば、長谷部さんは緒方竹虎の子分で、日記を見ると、いろんなことで緒方竹虎に相談しに行っているんです。まだ40代の人物が突然社長になって新聞の経営もしなくちゃならないし、GHQとのやり取りもしなくちゃならない、日本政府との関係とか、いろんな複雑な問題が生じて対応できないので結局、緒方竹虎のところに相談しに行っている。村山家との騒動が起きると、どうして対処していいか分からないので結局、緒方竹虎に相談したり、緒方さんから手紙をもらって、それはもともと戦時中の問題からこういうふうに起きたんだとか、緒方竹虎のほうが説明したものとかが残っていて、それは非常に貴重なものです。
資料集は、新聞通信調査会と宮本さんの文書がたまたま一致できたので、かなり大きい資料集として出せるかなと。
伊藤 原文書はどういうふうなことになるんですか。
有山 それはまだはっきり決まってないんです。私は、新聞協会で博物館を作って研究するんだったらそこに入れるようにと言っているんです。
伊藤 いまはまだ、その調査会が持っているわけですか。
有山 持っているんですが、最終的には原文書は新聞協会の博物館に入れたらいいんじゃないかと話が進んでいます。
ただ、それに対応する内務省とか情報局の公文書の側もあると、もっといろんなことが分かるのにと思っているんですが、残念ながら、公文書館には少しありますけど、情報局とかそうしたものに関するまとまった資料はないです。
伊藤 公文書館はそんなにないですか。
有山 ないですね。
伊藤 あれは内閣だから、情報局だってあったってよさそうなものですけどね。
古川 でも、あまりないですね。
有山 だから、どこか別に一括してあるのか、分からないですね。
伊藤 未整理にしているのかな。
古川 未整理は下にたくさん……
有山 その辺が分からないんですね。
伊藤 また、きみの紀元2600年と同じように、がんがんいうといろいろ出てくるかもしない。
有山 そうかもしれないですね。
古川 あれはでも、まとまって量は多いけど数的には少ないから出ましたが、膨大な細かいいろんな書類が下にあるけど、あれはもう整理する人手がないという、話の仕方としてはそういう言い方でした。とにかく下にあるやつは数がものすごいじゃないですか。
有山 ただ、情報局は廃止になるまでに時間があったので、焼却されたか何かという可能性が非常に高いかなと思いますけどね。
伊藤 だけど、内閣に属してたんだから書類は内閣に残ると、あそこに残るはずだよね。
有山 情報局ができる際の成立に関する資料とか、そういうものは公文書館に若干あって……
古川 あと、役所が離れていたからということはないんですか。
有山 どうなんですかね。
伊藤 しかし、私文書のほうから追っかけていって、相当やっぱり追えますね。
有山 ええ。私は、明治期とかあの辺りは、蘇峰の資料とかそういうものしか分からなかったんですけど、少なくとも戦時中や戦後に関しては、結構見つかるなという感じはしています。私は、新聞記者なんか日記はつけないのかなと思っていたら結構、日記をつけている人もいるようで……まあ、幹部クラスの人ですけどね。あるいは、資料を残している可能性が高いんじゃないかという人はいくつかいるんですね。
勝村 私、勝村と申しますが、私の親父はまだ頭もはっきりしておりますが、広岡さんと森恭三さん、長谷部さんと同じように朝日におりまして、確か聴さんが労組の委員長をしたあとの大阪の委員長で、産別が倒れて、2・1ストのときに広岡さんと親父とかが会っている様子は、子供心に覚えておるんですが、一度インタビューでもなさったらいかがかと思いまして。
有山 そうですか。それはぜひ聞きたいですね。
勝村 それで親父が私に話したのは、むしろ滝川事件とかですね。というのは、辞めたほうの教官の一人が私の叔父でしてね(笑)。それを取材したのが親父という関係でそちらの話はよく聞くんですが、産別、新産別ゼネストのときの話は、心になんぞ重荷になるものがあるのか言いませんね。だから、聞いていただくとかえって面白いんじゃないかと。
ただね、大阪朝日の委員長はしたんですが、すぐに辞めるんです。親父の名前は勝村泰三というんですが。その辞める経緯はよく分かりません。病気ということなのか、共産党から問題があったのか。ただ、その後生き延びてすぐ部長になっちゃうんで、何かそこら辺に(笑)……
有山 ええ。あのときに組合の方は、たいてい社で偉くなった方が多いです。もちろん広岡さんなんかもそうですよね。
勝村 そうですね。だから、37ぐらいでもう大阪本社の部長でしたから。その後は朝日の社外に出て終わるんですが。そういうプロセスの中で、広岡さんとか、反村山の人とのつながりが多く、ずっと上野さんと親しくさせていただいて、上野家の話も聞けるかもしれない。
有山 そうですか。この間、亡くなられましたよね。
勝村 それから、話の経緯によるとどこまで話すか分かりませんけれども、村山さんとの関わりもあるんですよ。
有山 ぜひ、聞かせていただいて。
伊藤 いいチャンスでしたね(笑)。
有山 最大の収穫ですね(笑)。そうですか、大阪のほうの委員長だったんですか。
勝村 大阪朝日です。
有山 東京のほうが、森さんが委員長で広岡さんが支部長ですね。
勝村 そうなんです。ただ、すぐに森さんは東京に残って、そのあと広岡さんは大阪へ移るんですよね。
有山 組合を辞めてからじゃないですか。
勝村 組合を辞めて、局長になって移るんですね。その広岡さんのときに多分、うちも組合を辞めて部長になるんです。だから、東京サイドと大阪サイドで少し温度差はあるかもしれませんが。
それから、GHQが入ってきたときの様子はかなりいろいろあるようですよ。そのときのことは、朝日はいちばん資料が残っているはずです。
有山 多分そうだと思うんですね。
勝村 大阪のは、そのときの経緯で私がひとつ知っているのは、確か高橋さんという方が朝日の校閲部にいまして、その人はいまのコンピュータみたいな人で、例えば8月1日陸軍定期異動というのがあると、そのときの官報を全部覚え、時には写真も一緒に覚えていたと。異動後の記事に誤りがあると、いや違うと言って投書がきたんですね。それが、あまりに頻繁にあるので校閲部に雇ったわけですが、後に調査部に移るんです。調査部というのは、書庫の番人ですね。ところで、新聞記者は書庫に入ると本をすぐほったらかして出ていくので、それに腹を立てて、自分が本の配置をシャッフルして、あっちこっちに全部バラバラに置いたんです。それで、陸軍が来たときも、GHQが本をだせといったときも、どこに何があるかさっぱり分からなくて、相当けったいなものがいっぱい残っているようですよ。社屋は変えていませんから、まだ残っているんじゃないですか。
有山 それこそ検閲の資料も大阪にもあるはずだと思うんですよね。大阪でも事前検閲していたわけですから、当然あるはずなんですよ。
それと、検閲していた側のCCDっていう部隊なんですけど、その部隊の戦友会みたいなものが3年ぐらい前にロスアンジェルスであったんですね。そのときも村上さんが教えてくれたので行って、検閲官をインタビューしてきたんです。隊長は白人なんですけど、大体が2世でして、なかなかそれは面白かったんですが、担当した日本の新聞社の人の名前を誰か覚えているかと聞いたら、ある二世が高桑さんを覚えていたんですよ。高桑さん本人も記録を残していたんですが、向こうから見ても非常に印象的な人だったようです。そのあと高桑さんに、「CCDの人があなたのことを覚えていて、こういう名前でしたが、あなたのほうは覚えてます」かって聞いたら、高桑さんは「2世とはいつもやりあっていたけど、何という名前だったか覚えてない」と。あるいは、その当時も名前を聞いていなかったのかもしれないですけどね。
勝村 向こうにいる通訳なんかはどうですか。
有山 通訳は非常に微妙なんですよ。通訳を通して日本の側は接触するしかないですから、そのために通訳を権限があると錯覚した部分が非常にあるんです。たとえば、放送なんかは台本はもちろん事前検閲されていたんですけど、それとは別にCIEという部隊が、指導と称して実際は検閲してたんです。それで、その窓口になった2世がいるんですが、その人は戦後の放送史では必ず名前が出てくる人で、戦後50年のときに日本に来て私もインタビューしたんです。しかし、GHQの資料にはその人のことなんか全然出てこないんです。だけど、当時生きていた日本の関係者は、あの人はすごい権限を持っていて、あの人のところに日参してやったんだと言うんですよ。それは前からおかしいなと思っていて、たまたまその人が日本に来たのでインタビューして聞いてみたら、非常に曖昧なことしか言わないし、多分その人は通訳であっただけで権限はなかった。だけど、日本側は当時みんなその人を頼りにするしかなかったから、その人はすごい権限を持っていたというふうに思ったらしくて、いろんなつけ届けもしたとか、その辺も非常に錯覚があるんだなと(笑)。
伊藤 個人文書であなたが接触できたのは大体、いまのところそれですか。
有山 はい。いまのところ戦後、戦時中にかけてはそれくらいですね。ただ、残っていることは分かっていて、いくつか声をかけてあるところはあるんです。資料は残っているということが分かっているので、いずれ遺族が出していいということになったら見せてくれるとか。
伊藤 もっと古い時代はどうですか。
有山 なかなかそれが見つけられないんですよね。
勝村 京大の新聞文庫はご覧になりました。上野さんが持っていた新聞ですが。
有山 あれは見ました。
勝村 その関連の文書はないですか。
有山 ないです。あそこは、上野さんがいろんな本をコレクションしているんですね。お金は随分たくさんあるので珍しい本をたくさん集めて、それを京大に寄贈されたコレクションなんですよ。それで新聞に関するものも、上野さんが古本屋とか何かから買ったものなんです。要するに、上野家にあったものとか、そうしたものはあそこにはないわけです。
勝村 そうすると、まだある可能性はあるね。
伊藤 あの家にはあるでしょうね。
勝村 美土路さんの系統はお分かりになりますか。
有山 美土路昌一さんのところは、私は追いかけてないですけどね。
勝村 あの人もきちんとした人だったから。
有山 そうだと思いますね。広岡さんも資料を残しているんだと思うんですが、少なくともいまのところは、残しているとは自分は言ってないですね。
伊藤 読売はどうでしょうね。
有山 正力さんのところは、可能性はあると思うんですよ。あるいは、務台光雄という彼の片腕のところですね。そこにはあると思うんですが、私はいまのところどちらも接触はしてないんですが、残しているんじゃないかなと思います。ただ、娘婿さんたちが重役や社長をされて、きっと公開しないかなと思ってます。
伊藤 いやあ、その小林さんにいまインタビューを始めたんだけど、脳溢血か何かで言っていることが分からないんだよ。それで、2回ぐらいやってちょっと中断しているんだけれども、これも何とか再建して史料のほうにつなげたいとは思っているんですけどね(笑)。
有山 そうですね、小林さんは持っているかもしれない。組合の側の人も残している人がいないかなと思って探しているんですけどね。
伊藤 とにかくそういう個人文書を徹底的にいろんな分野で集めて、おそらくいろんな形で交錯するわけですから、政治でも経済でも文化でも社会でも、それを全部情報としてつなげられるようにしたいと思っているんですが。
有山 そうですね。それと、私はまだやってないんですけれども、地方紙のほうはオーナーとか代々続いている家があるので、そっちのほうが可能性があるはずだと思っているんですけど、そこまでちょっとまだ手を伸ばしてないので。



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