検閲とWGIP(宣伝)の概要

<<引用コピペ推奨>>
<Back>

検閲とWGIP(宣伝)の概要

「閉された言語空間(江藤淳著・文春文庫)」という本は、主に検閲について書かれている本ですが、WGIPについてもそのものずばりの「War Guilt Information Program」というタイトルのGHQの内部文書について書かれています。

検閲とWGIPについては、戦後の日本を形作る重要な要素であるにもかかわらず、それを紹介もしくは研究した書籍がまだまだ少ないと思います。その中の貴重な書籍が江藤氏の同書です。以下では、同書より得た知識を引用とともに羅列していますが、興味を持たれた方は、ぜひ同書をご自身でも一読されることをお勧めします。

検閲について

第2次世界大戦中、アメリカには合衆国検閲局(The U. S. Office of Censorship)という政府機関が設置されました。真珠湾攻撃の翌日にはFBI長官が臨時の長官代理として任命され、12月19日にはAP通信社編集局長バイロン・プライス(Byron Price)を長官として正式に発足しました。そして、終戦とともに米国内の検閲は中止となり11月15日付で名実ともに廃止となりました。

一般的に検閲には、情報の漏洩を防ぐという事と、情報を収集するという事の2つの役割があります。

日本における検閲の主体となるのは米陸軍ですが、計画の策定には検閲局が大きく影響を与えているとともに、検閲のシステムとノウハウが検閲局から米陸軍へと継承されました。

米国では、検閲は検閲局(The Office of Censorship)が宣伝(プロパガンダ)は戦時情報局(The Office of War Information)が、それぞれ担当していました。検閲局は、いわば影の存在に徹していました。この体制はそのままGHQ内の民間検閲支隊(Civil Censorship Detachment)と民間情報教育局(Civil Information and Education Section)という体制にあてはめることが出来ます。

日本での検閲についての準備期間としては、1943年6月2日の検閲局長官バイロン・プライスから陸軍長官ヘンリー・スティムソンへの書簡にまで辿ることができます。書簡の内容は、今後連合国によって占領されるべき各地域での検閲の実施方法と所管機関、および機関相互の責任分担について、早急に検討を求めたいというものです。

占領軍当局が日本で実施した「民間検閲」は、1944年11月12日付の米統合参謀本部からの命令書「J. C. S. 873/3」を根拠としています。

命令書「J. C. S. 873/3」に基づいて「日本における民間検閲基本計画(Basic Plan for Civil Censorship in Japan)」の初版が策定されたのは1945年4月20日ですが、この時点ではダウンフォール作戦という日本本土侵攻作戦が実行されるものとして立案されていました。

この「日本における民間検閲基本計画」は、ドイツにおける計画を参考にして策定されていますが、ドイツに対する計画に比べて「いちじるしく厳格なものである」と記されています。

「閉された言語空間(江藤淳 著・文春文庫)」P139より引用

 まず日本を、「実効ある検閲の網の目」によって包囲し、その言語空間を外部の世界から完全に遮断する。しかるのちに「広汎」な検閲「攻勢」によって、この閉された言語空間を占領権力の意のままに造り変える。
 人種としての日本人に対しては、合衆国政府は、はるかに小規模なかたちでとはいえ、強制収容所内に隔離された太平洋沿岸在住の日系人に対して、同じことをすでに実施しつつあった。だが、「基本計画」は、これとは比較にならぬほど大規模なかたちで、同じ情報遮断と言語空間の改造を、国民としての日本人に対して実行しようというのである。

1945年7月10日には「基本計画」の第一次改訂版が策定されますが、この時点でも基本的にはダウンフォール作戦を前提とした計画であり、ブラックリスト作戦の構想はごく部分的に反映されているのみです。

ブラックリスト作戦とは、ダウンフォール作戦が実行されるよりも前に日本が降伏した場合を想定した作戦計画ですが、この計画は連合国軍が日本全土を占領し、直接に軍政をしくことを想定していました。

上記の「基本計画」では、民間検閲を実施する期間を以下の3段階に分けていました。
第1段階 戦闘段階
第2段階 占領段階
第3段階 占領地住民による政府が設立される段階
もちろん、実際には、第1段階は消滅し、第2、第3段階の様相も全く違ったものになります。

日本によるポツダム宣言の受諾によって、上記の「基本計画」は大幅な改訂が必要となってしまいます。しかし、米軍および米国務省は、ポツダム宣言が「国際協定」であり「双務的」拘束力を持つという認識がありながらも、それまでの(無条件降伏を基礎とする)基本的な政策方針を変更することはありませんでした。特に検閲については降伏条件に矛盾するということから、検閲自体を秘匿するという手段を選択しました。

「閉された言語空間(江藤淳 著・文春文庫)」P179-181より引用

 これは通常米国務省第1254文書(「合衆国外交関係文書」1945・ベルリン会議・所収)と呼ばれているもので、「1945年7月26日の宣言と国務省の政策との比較検討」と題され、日付はないが、国務長官スタッフ会議第151回会議の議事録に添付され、昭和20年(1945)7月30日に開催された同会議第152回会議に提出されたものである旨が、脚注に記されている。

≪第1 問題
 1945年7月26日の宣言は、どの程度国務省の政策と一致するか。

 第2 討議
 (一)この宣言は、日本国(第一項)および日本国政府(第十三項)に対し、降伏条件を提示した文書であって、受諾されれば国際法の一般遵則によって解釈されるべき国際協定となるであろう。国際法では国際協定中の不明確な諸条件は、それを受諾した国に有利に解釈されて来た。条件を提示した国は、その意図を明確にする義務を負っている。
(Harvard Research, Draft Convention on Treaties, American Journal of International Law, Supp., 1935, Vol. 29, p.941 参照。この点に関して若干の仲裁裁定をあげている)
 国務省の政策は、これまで無条件降伏とは何等の契約的要素(contractual elements)をも有しない一方的な降伏(a unilateral surrender)と解釈して来た。

 (二)この宣言が想定している降伏の契約的な性質は、第十三項における「誠意」という言葉への言及とあいまって、降伏条件の履行がある程度日本国政府の誠意に委ねられていることを示している。
 国務省の政策は、降伏の初期の段階では一切の要求は連合軍によって遂行されるべきであり、日本当局の誠意に依拠すべきでないとしている。

 (三)この宣言は、無条件降伏が「全日本国軍隊」にのみ適用されるものと解している。国務省の政策は、無条件降伏が日本国(つまり軍隊のみならず天皇、政府および国民を含む)に適用されるものと解し、これらすべてが連合国が政策遂行のために適当と考える一切の行為に黙従すべきものと解している。(下略)≫

 つまり、米国務省は、発出されたポツダム宣言について、日本側とほぼ同一の見解を保持していたのである。それは双務的・相互拘束的な契約文書であり、もし受諾されれば従来の国務省の政策に大幅な修正を迫るような性格の協定にほかならない。

1945年9月2日に行われたミズーリ艦上での降伏文書調印に前後して日本に上陸した民間検閲支隊長フーヴァー大佐は、検閲の実務に並行して「基本計画」の改訂作業に取り組まなければなりませんでした。

また、上記の「基本計画」からの変更点として、新聞および放送の検閲が当初は広報担当将校の所管であったのが、要員の確保が出来ていないとの理由から、民間検閲支隊(CCD)の所管となったことが挙げられます。この変更点によって民間検閲支隊内部に設けられたのが新聞映画放送部(PPB)でした。

9月3日にマッカーサーは日本の報道機関による一切の外国語放送の禁止を命令していますが、この命令は報道機関によって無視されました。

9月10日に「新聞報道取締方針」が日本政府に対する最高司令官指令(SCAPIN-16)として発出されました。ですが、日本の報道機関は、この指令に従おうとはしませんでした。日本の報道機関もポツダム宣言が言論の自由を保障していること、また条件降伏である以上、勝者を批判する権利が留保されていると認識していました。

9月14日、GHQによって同盟通信社が業務停止させられました。翌日に業務再開となりますが、海外放送は引き続き停止させられ、国内放送は同社内に常駐する米陸軍代表者による100パーセントの検閲のもとでの業務再開です。

9月15日、民間検閲支隊長フーヴァー大佐が報道関係者に対して声明を発表しました。この声明は「最高司令官は日本政府に命令する・・・交渉するのではない」と主張しています。これは9月6日付でトルーマン米大統領からマッカーサーに交付された指令JCS1380/6に立脚したものでした。同指令は、日本との関係が無条件降伏を基礎としたものであると(一方的に)規定しています。

「閉された言語空間(江藤淳 著・文春文庫)」P179より引用

 実施部隊の一部隊長にすぎないフーヴァー大佐が、独断でこのように重要な声明を行い得たはずはない。もとより大佐は、九月六日付で米大統領トルーマンがマッカーサーに交付した指令、JCS1380/6の、次のような文言に立脚して日本報道関係者に声明していたのである。
 因みに、この指令の第一項は、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのでなく、無条件降伏を基礎とするものである」と規定し、第三項はさらに重ねて「われわれがポツダム宣言を尊重し、実行しようとするのは、日本との契約関係に拘束されていると考える」からではなく、同宣言が「日本に関して、また極東における平和および安全に関して誠意を以て示されているわれわれの政策の一部をなすもの」(傍点引用者)だからである、と述べている。
 これに関連して注目すべき事実は、それよりおよそ六週間前の同年七月末現在、米国務省がポツダム宣言について、JCS1380/6に示されたものとは全く正反対の見解を示していたという事実である。

9月15日以降にも抵抗の姿勢を示す報道機関に対して、その都度、発行禁止と押収による対応が行われました。9月18日には朝日新聞の48時間発行停止が、9月19日には英字新聞ニッポン・タイムズの24時間発行停止が行われ、10月1日には東洋経済新報の9月29日号の(既配本分一切の)押収が行われています。

9月19日、「日本新聞遵則」が最高司令官指令(SCAPIN-33)として発出されます。この内容が日本の報道・出版関係者に公表されたのは9月21日でした。これは9月10日付の「新聞報道取締方針」に替わるものとなります。

9月22日、「日本放送遵則」が最高司令官指令(SCAPIN-43)として発出されます。

のちの1950年9月に編纂されたGHQの内部資料によれば、これら新聞遵則、放送遵則、そして映画遵則は「禁止したいどんな記事についてもどんな理由でもつけることができ、かつそれを実際禁止できる合財袋のような十箇条から出来上がっていることが明らかである」と述べられています。

9月24日、「新聞界の政府からの分離」と題された最高司令官指令(SCAPIN-51)が発出されます。この3日後、同盟通信社社長は同社解散の意向を明らかにし、10月31日の役員会において解散を決議することになります。

9月25日、天皇陛下は2人の外国人記者にはじめて謁見を許されました。この時のインタビューは即座に全世界に打電されましたが、日本の新聞には数日間掲載されませんでした。

9月27日、天皇陛下は自らの御発意で米国大使館に赴かれ、連合国最高司令官マッカーサーを訪問されました。この際撮影されたのが、モーニング姿の天皇陛下と開衿シャツ姿のマッカーサーとのあの有名な記念写真ですが、当初、日本の新聞はその掲載を差し控えました。

9月29日、おそらく占領軍総司令部から配布されたと思われる27日の記念写真と25日のインタビュー記事が、ようやく各紙に掲載されますが、日本の内務省は直ちにこれを差し押さえます。すなわち内務省は、9月24日付の「新聞界の政府からの分離」指令に真向から挑戦して、日本の現行国内法を発動したわけです。
これに対して総司令部側は、9月27日付の「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を29日に日本政府に通達しました。(指令の日付は27日ですが、日本政府に実際に通達されたのは29日です)この指令は、SCAPIN-16とSCAPIN-51に反する平時および戦時の現行法令の撤廃を命じています。
この指令の結果、日本の新聞は、国家に対する忠誠義務から完全に解放され、その代わりに、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれ、その「政策ないしは意見」の代弁者に変質させられました。

10月8日、事前検閲がそれまでの同盟通信社だけでなく、「朝日」「毎日」「読売報知」「日本産業経済」および「東京新聞」の在京5紙に対して始められました。

「閉された言語空間(江藤淳 著・文春文庫)」P237-241より引用

昭和21年11月末には、すでに次のような検閲指針がまとめられていたことが、米国立公文書館分室所在の資料によって明らかである。

削除または掲載発行禁止の対象となるもの

(1) SCAP−連合国最高司令官(司令部)に対する批判
連合国最高司令官(司令部)に対するいかなる一般的批判、および以下に特定されていない連合国最高司令官(司令部)指揮下のいかなる部署に対する批判もこの範疇に属する。
(2) 極東軍事裁判批判
極東軍事裁判に対する一切の一般的批判、または軍事裁判に関係のある人物もしくは事項に関する特定の批判がこれに相当する。
(3) SCAPが憲法を起草したことに対する批判
日本の新憲法起草に当ってSCAPが果した役割についての一切の言及、あるいは憲法起草に当ってSCAPが果した役割に対する一切の批判。
(4) 検閲制度への言及
出版、映画、新聞、雑誌の検閲が行われていることに関する直接間接の言及がこれに相当する。
(5) 合衆国に対する批判
合衆国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(6) ロシアに対する批判
ソ連邦に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(7) 英国に対する批判
英国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(8) 朝鮮人に対する批判
朝鮮人に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(9) 中国に対する批判
中国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(10)他の連合国に対する批判
他の連合国に対する直接間接の一切の批判がこれに相当する。
(11)連合国一般に対する批判
国を特定せず、連合国一般に対して行われた批判がこれに相当する。
(12)満州における日本人取扱についての批判
満州における日本人取扱について特に言及したものがこれに相当する。これらはソ連および中国に対する批判の項には含めない。
(13)連合国の戦前の政策に対する批判
一国あるいは複数の連合国の戦前の政策に対して行われた一切の批判がこれに相当する。これに相当する批判は、特定の国に対する批判の項目には含まれない。
(14)第三次世界大戦への言及
第三次世界大戦の問題に関する文章について行われた削除は、特定の国に対する批判の項目ではなく、この項目で扱う。
(15)ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
西側諸国とソ連との間に存在する状況についての論評がこれに相当する。ソ連および特定の西側の国に対する批判の項目には含めない。
(16)戦争擁護の宣伝
日本の戦争遂行および戦争中における行為を擁護する直接間接の一切の宣伝がこれに相当する。
(17)神国日本の宣伝
日本国を神聖視し、天皇の神格性を主張する直接間接の宣伝がこれに相当する。
(18)軍国主義の宣伝
「戦争擁護」の宣伝に含まれない、厳密な意味での軍国主義の一切の宣伝をいう。
(19)ナショナリズムの宣伝
厳密な意味での国家主義の一切の宣伝がこれに相当する。ただし戦争擁護、神国日本その他の宣伝はこれに含めない。
(20)大東亜共栄圏の宣伝
大東亜共栄圏に関する宣伝のみこれに相当し、軍国主義、国家主義、神国日本、その他の宣伝はこれに含めない。
(21)その他の宣伝
以上特記した以外のあらゆる宣伝がこれに相当する。
(22)戦争犯罪人の正当化および擁護
戦争犯罪人の一切の正当化および擁護がこれに相当する。ただし軍国主義の批判はこれに含めない。
(23)占領軍兵士と日本女性との交渉
厳密な意味で日本女性との交渉を取扱うストーリーがこれに相当する。合衆国批判には含めない。
(24)闇市の状況
闇市の状況についての言及がこれに相当する。
(25)占領軍軍隊に対する批判
占領軍軍隊に対する批判がこれに相当する。したがって特定の国に対する批判には含めない。
(26)飢餓の誇張
日本における飢餓を誇張した記事がこれに相当する。
(27)暴力と不穏の行動の扇動
この種の記事がこれに相当する。
(28)虚偽の報道
明白な虚偽の報道がこれに相当する。
(29)SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
(30)解禁されていない報道の公表

A Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions, dated 25 November, 1946, The National Record Center, RG 331, Box No. 8568.

 

WGIP(War Guilt Information Program)
(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)について。

この「プログラム」は、大東亜戦争を日本と米国との戦いではなく、実際には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとしています。
そして、大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、その責任を米国人ではなく「軍国主義者」になすりつけようとしています。

「閉された言語空間(江藤淳 著・文春文庫)」P261-P264より引用

 ここに、CI&E(民間情報教育局)からG−2(CIS・Civil Intelligence Section・参謀第二部民間諜報局)に宛てて発せられた、一通の文書がある。文書の表題は、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」、日付は昭和二十三年(1948)二月六日、同年二月十一日から市谷法廷で開始されたキーナン首席検事の最終論告に先立つこと僅かに五日である。この文書は、冒頭でこう述べている。(脚注)

≪1、CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の続行に当り、かつまたこの「プログラム」を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の対抗措置を含むものにまで拡大するに当って、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている≫

さらにつづいて、この文書は、「占領の初期においてCI&Eが、民間情報の分野で一連の『ウォー・ギルト』活動を開始」した事実に触れ、それが一般命令第四号(SCAP・昭和二十年<1945>十月二日)第二項"a"(3)にもとづくものであることを明らかにしている。一般命令第四号の、この条項の文言は次の通りである。

≪"a" 左の如く勧告する。(中略)
 (3) 各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること≫

 この勧告を受けて開始されたCI&Eの、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の「第一段階」は、昭和二十一年(1946)初頭から同年六月にかけての時期であったと、前記の文書は記している。しかし、新聞に関していえば、この「プログラム」は、すでにいちはやく昭和二十年のうちから開始されていた。

≪1、戦争の真相を叙述した『太平洋戦争史』(約一万五千語)と題する連載企画は、CI&Eが準備し、G−3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。この企画の第一回は一九四五年一二月八日に掲載され、以後ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載された。この『太平洋戦争史』は、戦争をはじめた罪とこれまで日本人に知らされていなかった歴史の真相を強調するだけではなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している。
 2、この連載がはじまる前に、マニラにおける山下裁判、横浜法廷で裁かれているB・C級戦犯容疑者のリストの発表と関連して、戦時中の残虐行為を強調した日本の新聞向けの「インフォーメーション・プログラム」が実施された。この「プログラム」は、一二月八日以降は『太平洋戦争史』の連載と相呼応することとなった。(下略)≫

 この「プログラム」が、以後正確に戦犯容疑者の逮捕や、戦犯裁判の節目々々に時期を合せて展開されて行ったという事実は、軽々に看過すことができない。つまりそれは、日本の敗北を、「一時的かつ一過性のものとしか受け取っていない」大方の国民感情に対する、執拗な挑戦であった。前掲のCI&E文書の昭和二十三年(1948)二月六日という日付は、それにもかかわらずCCDの収集した情報によれば、この時期になってもなお、依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着していなかったことを示す、有力な証拠といわなければならない。

(脚注)
Draft of c/n, Subject:War Guilt Information Program, From:CIE, To:G-2(CIS), :Date:6 February 1948.筆者はウィルソン研究所に出向中右のコピーをアマスト大学史学教授レイ・A・ムーア博士から提供された。コピーには特段のスタンプがないが、推測するところThe National Record Center, Suitland, Marylandで、ムーア教授がGHQ文書を閲覧中に発見したものと思われる。同教授の好意と友情に感謝したい。

「太平洋戦争」という名称は、このときに目的を持って日本語に導入された名称です。それ以前には「大東亜戦争」と呼んでいましたが、「大東亜戦争」や「八紘一宇」といった用語の使用は禁止されてしまいます。

また、学校教育では、修身、国史、地理の科目について授業停止と教科書の回収が行われ、そして上記の『太平洋戦争史』を書籍化したものを教材として使用することを命じられてしまいます。

さらに、ラジオでは、『太平洋戦争史』を劇とした番組『真相はこうだ』が放送され、同時に質問箱(のちに『真相箱』となる)の放送も開始されます。

また、新聞等のニュース、特に「東京裁判」のニュースについては、毎日、GHQの指導に基づいた論説と報道が行われました。

「閉された言語空間(江藤淳 著・文春文庫)」P270-P273より引用

 それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の嚆矢として作成された文書にほかならないからである。歴史記述をよそおってはいるが、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、前掲の前書を一読しただけでも明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。

 これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである。

 そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。

 CI&Eが、このような対立の図式を仮構するに当って、どの程度マルクス主義的思考の影響を受けていたかは、さだかではない。しかし、「これらのうち何といつても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の隠蔽であらう」という、前書の一節が、グロテスクな響きを発せざるを得ないのは、この宣伝文書が、戦争とは国家間の争いにほかならないという自明な「真実」を「隠蔽」したまま、いわゆる「真相」の暴露に終始しているためというほかない。しかも、この宣伝文書が発表されたとき、日本の言語空間は、すでにその存在を秘匿し、「隠蔽」していたCCDの検閲によって、ほぼ完璧に近いかたちに閉され、監視されていたのである。

 前掲のCI&E文書が自認する通り、占領初期の昭和二十年から昭和二十三年にいたる段階では、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、かならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっていなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから、次第に顕著なものとなりつつあるように思われる。

 なぜなら、教科書論争も、昭和五十七年(1982)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、『山河燃ゆ』も、本多勝一記者の”南京虐殺”に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和二十年(1945)十二月八日を期して各紙に連載を命じられた、『太平洋戦争史』と題するCI&E製の宣伝文書に端を発する空騒ぎだと、いわざるを得ないからである。そして、騒ぎが大きい割には、そのいずれもが不思議に空虚な響きを発するのは、おそらく淵源となっている文書そのものが、一片の宣伝文書に過ぎないためにちがいない。

 占領終了後、すでに一世代以上が経過しているというのに、いまだにCI&Eの宣伝文書の言葉を、いつまでもおうむ返しに繰り返しつづけているのは、考えようによっては天下の奇観というほかないが、これは一つには戦後日本の歴史記述の大部分が、『太平洋戦争史』で規定されたパラダイムを、依然として墨守しつづけているためであり、さらにはそのような歴史記述をテクストとして教育された戦後生れの世代が、次第に社会の中堅を占めつつあるためである。

つまり、正確にいえば、彼らは、正当な史料批判にもとづく歴史記述によって教育されるかわりに、知らず知らずのうちに「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の宣伝によって、間接的に洗脳されてしまった世代というほかない。教育と言論を適確に掌握して置けば、占領権力は、占領の終了後もときには幾世代にもわたって、効果的な影響力を非占領国に及ぼし得る。そのことを、CCDの検閲とCI&Eによる「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、表裏一体となって例証しているのである。

上記の引用文にて「マルクス主義的思考の影響」とありますが、以下のリンク先も参考になるかもしれません。

ニューディーラーと共産主義者(1)〜(3)
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/15145423.html?page=56
> 今回の米国公文書の公開によって明らかにされたように、米国
>は、日本の真珠湾攻撃の前に、昭和16年9月には、日本爆撃を
>計画を策定していた。その計画を推進したのが、大統領補佐官カ
>リーだった。彼は、ソ連のスパイだった。
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/15147127.html?page=56
> E・H・ノーマンは、日本に生まれ育ったカナダ人で、日本語
>に堪能だった。(中略)
> 片岡鉄哉氏の名著「日本永久占領」(講談社文庫)によると、
>ノーマンは「マルクス主義者」で、「れっきとしたカナダ共産党
>員」だった。
(中略)
> 彼は、マッカーサーの命を受けて、府中の刑務所から日本共産
>党員を釈放した。また、彼は、「戦犯容疑者」の調査を担当した。
>彼の事務所には、日共の幹部たちが、日参して入り浸っていた。
>ノーマンは、彼らの供述を基礎に「A級戦犯」の起訴状を書いた。
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/15148830.html?page=56
> GHQには、多数のニューディーラーがいた。彼らは米国で実
>現できなかったリベラルな理想を、日本の占領政策で実現しよう
>とした。特にGS(民政局)には、多くのニューディーラーが集
>まった。その民政局で次長となり、辣腕を振るったのが、チャー
>ルズ・ケーディス中佐だ。

ハル・ノートの真実(1)〜(2)
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/15152741.html?page=56
> しかし、この「権力闘争」の経緯についてはすでに知られてい
>たものの(といっても私は知らなかったのですが)、なぜ財務次官
>のホワイト氏が米国の外交政策全体を左右する影響力を行使でき
>たのか、またなぜこれほど強硬な対日政策案を作成したのか、と
>いう事は謎のままでした。その謎を解いたのが今回発見された、
>ホワイト氏もカリー氏と同様にソ連のスパイ(=共産主義者)だっ
>た事を示す記録だった、という事です。
http://blog.mag2.com/m/log/0000013290/15154351.html?page=56
> また、それまでの日米交渉の経過を全てひっくり返す「モーゲ
>ンソー・ホワイト試案」をルーズベルト大統領がいとも簡単に承
>認した、という事は、その時点でルーズベルト政権がほぼ完全に
>「親共産主義者」に乗っ取られてしまっていた事、さらに大統領
>自身もすでに「親共産」になってしまっていた事を示しているよ
>うに思います。

また、中国共産党による日本兵捕虜の意識変革活動のノウハウに、米戦時情報局が注目していた、という情報もあります。

【WGIP】日本人の洗脳は解けるのか?【継続中】2
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/asia/1044021791/

473 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:03/03/01 17:08 ID:rP7E2TeM
タイムリーな記事発見
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20030301k0000e040062000c.html

延安リポート:
日本兵捕虜の実態が明かに 早大教授が調査

 第二次世界大戦末期に中国・延安の中国共産党軍に捕らわれていた日本兵捕虜の実態などを、米戦時情報局が分析した「延安リポート」の全容が1日までに、山本武利・早稲田大教授(メディア史)の調査で明らかになった。「延安リポート」の内容は、これまでも断片的には知られていたが、山本教授は1月、米メリーランド州の米国立公文書館に保管されていた71号までのリポート全文を初めて確認した。

例えば、44年11月25日付の22号は、中国共産党軍の反戦教育機関「日本工農学校」にいた日本人捕虜98人を対象に、米側が実施した意見調査の結果をまとめている。これによると、96人までが「中国に対する戦争は間違っている」と答え、94人までが「戦後、天皇制は廃止されるべきだ」と考えていた。
 意見調査を実施した米戦時情報局関係者は、根強い日本軍の抵抗の原因とみられた日本人の天皇崇拝も「教育によって破壊できる」などと分析。中国共産党による捕虜の意識変革活動のノウハウに注目していた。
 山本教授は「米側は日本人の心理を系統的に分析するため、イデオロギー的に対立する中国共産党軍にも積極的にアプローチした。
このリポートは、日本兵捕虜への対応や軍事作戦、戦後の占領政策にまで活用された」と話している。

 

<<引用コピペ推奨>>
:2003:waya

<Back>

 

inserted by FC2 system